お盆のいわれ

            

 お盆のいわれといいますと、中々耳にする聞く機会もないかもしれませんので、今日は分かりやすくお話をしていきたいと思います。

 

仏さまのお弟子の中に、目蓮尊者(もくれんそんじゃ)という方がおられ、修行を積み重ねていった結果、神通力(じんつうりき)という不思議な力を身につけていかれたのです。

 

この目蓮尊者に青提女(せいだいにょ)というお母さんがいましたが、大変欲が深く、金を貸してはその取立てに病人の布団まで剥(は)ぎ取っていく・・というまことに欲の深い人でしたが、ある日亡くなったのです。

 

そのお母さんは、死後どこに生まれ変わったのであろうか・・

 

と心配な目蓮尊者は、神通力を用いてお母さんの生まれ変わった場所を覗(のぞ)いてみたのでした。

 

すると、こともあろうか餓鬼(がき)という苦しみの世界に生まれ変わっていたのでした。

 

お母さんの姿といいますと

 

絶えず食べ物に餓(う)え、頭はまりのよう、首は糸のように細く、お腹は大海(たいかい)のように大きく、骨はまるで石を並べているかのように、肌はニワトリの皮をむしりとったような姿。

 

口は餓(う)えた蛭(ひる)のようにとがらし、手を合わせて物を欲しがっている・・・

 

まことに哀れな姿だったのです。

 

目蓮尊者は、あまりの母の哀れな姿に涙を流し、自分の神通力を用いてお母さんの前にご飯を差し出したのです。

 

お母さんは、それを見て喜び慌(あわ)てて目の前のご飯を手につかんで口に放り込むのですが、ナンとその放り込んだご飯が火となって燃え始めたのです。

 

お母さんは、火に焼けてもがき苦しんでいるのです。

 

それを見た目蓮尊者は、慌てて神通力で水をかけるのですが、今度はその水が油となって余計にお母んの身体は燃え、もがき苦しむのです。

 

自分の力では救うどころか余計苦しめてしまう・・と観念した目蓮尊者は、仏さまのところへ走っていき、泣いて助けを乞(こ)い求めたのです。

 

すると仏さまは、

 

お母さんの生前の罪の深さによって、今受ける苦しみの自業(じごう)の因果を説かれたのです。

 

そして

 

「とうてい、普通のことでは救えない。いたるところで修行している聖僧(仏の弟子)が、年に1回、7月15日に私のもとに集まるから、その時に「百味(ひゃくみ)の飲食(おんじき)」といって、精一杯の飲み物・食べ物を供養(くよう)しなさい。そしてその施(ほどこ)す功徳(くどく)によってお母さんの苦しみを救ってあげなさい。」

 

と、このように説かれたのです。

 

それを目蓮尊者は、仏さまの云われるその通りにしたところ、お母さんは餓鬼界(がきかい)という苦しみの世界から一劫(いっこう)という年月だけその苦を逃れ、天上界(てんじょうかい)に生を得た・・

 

ということであります。

 

それが、7月15日、もしくは8月15日にお盆をするいわれなのです。

 

お盆といいますと、家元に親戚が集まり、僧侶を招いて飲み物・食べ物を施(ほどこ)して、先祖の供養を申し上げる・・というならわしは、ここからきているのです。

 

さらに大事なことは、

 

お母さんは、目蓮尊者の供養によって一劫という限られた年月は救われたのですが、また時を過ぎれ餓鬼界へ戻ってしまうものですから、完全な救いとはいえないのです。

 

そこで、仏さまは目蓮尊者に

 

「自身仏にならずして父母をだに救ひ難(がた)し 況(いわん)や他人をや」

 

「自分自身が仏にならずして、亡くなった父母の霊を救うことは出来ない。まして他人を救うことなど出来る道理はない。」

 

このように云われたお言葉を目蓮尊者は素直に受け、仏になる修行をしていかれたのです。

 

その結果、仏になることが出来、その時に亡き父母の霊も浮かばれていった・・ということです。

 

以上、お盆のいわれについて簡単にお話をしてきましたが、

 

大事なことは、自分自身が今現在にして仏になっていく修行をしていくところに、亡き父母の霊など浮かばれる因(もと)があるのですから、毎日がお盆である・・と捉え、常日頃から、仏になる修行(人を大事に・人を思いやる)をさせていただくことこそが、とても大切なのです。