全体と部分
平成十八年六月十一日 御講席御法門 小牧清立御住職
今日は先月のおさらいをしながら御法門していこうと思います。
御法門は忘れてしまいますよね、極端な事を言えば、その日にお寺を出た途端に『あれ、なんだったっけ?』となってしまう、凡夫の信心はそんなものなのですよね。
いい加減に聞いている分けではないのだろうけれど、それだけ私達凡夫は過去からの御法門というものを耳にしておらず、どうしても仏語が遠く感じられるのでしょうね。
ですから、御法門を先に進めていく事も大切ですが、戻ったり繰り返したりする事も大切と思われるので、先月の御法門をおさらいしながらやっていきます。
ただし先月の御法門と同じ様には話をしないで別の角度から話していこうと思います。
先月お話した御法門の骨格というのは、正行と助行という事でした。
正行と言うのは中心となる修行、中心体と捉えて下さい。
助行は中心を支えるものです。
ですから先月は妙講一座を用いて、何の為の妙講一座か、それは御題目を讃える為のものである、というお話をしました。
妙講一座と御題目、とした場合どちらが正行で助行か、それは御題目が正行で妙講一座が助行という事でした。
無始己来の御文から始まり最期にも無始己来を御唱えして終わりますが、それは何処までも御題目修行が中心ということで、御題目を支え讃えていくのが妙講一座です。
例えば、修行の中にも正行と助行があるわけです。
では私達の修行の内で正行となるものは何かと言うと、化他行(菩薩行)です。
それに対して化他行を支える助行は自行(自分の修行)があります。
まずここから捉えていかないと、御信心がぼやけていってしまいます。
自行と言うのは自分の修行、御願い事をすることですが、それだけを捉えていくと信心が判らなくなって来るのです。
なぜなら正行である中心体の信心が行われていないからです。
助行は中心体を支える修行であって、枝葉の様なもので骨格ではありません。
信心も一緒の事が言えます。
中心になるものとそれを支えるもの、両面があると言う事を知っておかなければならないのです。
化他行が私達の信心修行の中心であり、それを支えるものとして自行という己の修行があるのです、これを知っておかないと信心がぼやけていくのです。
ぼやけた信心をしていくと、どの様な人間性が出来上がっていくかと言うと自分中心の利己的な人間性が出来上がる、出来上がると言うよりは人間は元々そう言う性格を持っているから、それがより明確化していくのです。
人を陥れたり裏切ったり、その様な行動が出て来ます。
中心体とそれを支える助行、これをしっかりと確立したものを感覚的にも教義的にも捉えている人は、何処までも化他行が中心であり、そうでないと成仏処では無いのだと言う事がしっかり備わって、自行もしっかりとしていけるのです。
嘘をついたり人を裏切ったり陥(おとしい)れたりしては、もっての他なのだと言う事が身に付いて来る修行が出来て来ます。
この点をしっかりと捉えているかぼやけているかで、その先の方向性が全く異なってくるのです。
例えば、これらが分っていない人に『あなた方は何の為に御講参りに行くのですか?』と質問してもぼやけた解答しか返ってきません。
『大事だからです』とか・・・
『何の為の御修行ですか?何の為の御会式ですか』ときかれて『いやあ、判りません』。
『ではお布施は何の為にするのですか?』と聞かれれば
『いやあ、御講師さんの生活を支えなければいけないものですから』・・・そんなぼやけた答えが返ってきたりします。
そして、ぼやけてくると形式化していきます。
中身、本質が失われていくのです。
本質が失われていくという事は正行体、助行体が判らなくなっていくという事です。
化他行、菩薩行をさせて貰う為に御講参りをさせていただいて、その為に御法門聴聞させていただくのです。
今は出来ていない自分があっても、遅かれ早かれ化他行をさせていただかなければならないのです。
その為にきつい時があっても御講参詣をさせていただく、それが自分自身の修行なのです。
化他行をさせていただく為の自行なのです。
又修行として、御題目になりきれる様に自分の心に鞭を打って、他人の為にはなかなか御題目を唱えられないからこそ御講で修行させていただくのです。
他人に御信心の話をしようとしてもなかなか自分から切り出せない、自分自身も教学的な事が殆ど判らない、だから御法門聴聞させていただき、要は御弘通の御為に御講参詣するのです。
肝心なのは菩薩行(化他行)をさせていただかなければいけないという事なのです。
御会式は御恩報事です。
先師聖人等方の御回向をさせて戴くのです。
御祖師様、門祖聖人、開導聖人等が自分の事を顧みず、御法の御為に法を我々凡夫の末世に流す御苦労をして御弘通して下さったおかげで今日の私達があるのです。
であるならば、先師聖人方があればこそ自分自身も尊い御法に御出会いさせて頂き御利益や御加護を戴いて今の日がある訳ですので恩を忘れてはいけないのです。
だから御恩報じとしての御会式を私達自らが願主となって奉修させていただくのです。
そして、先師聖人等方のお心が何処にあるかと言うと、御弘通であり菩薩行です。
法を流す事であったのです。
ですから、私達も御恩報じである御会式に御参詣させて頂き、人助けをさせていただくのが信心なのだ、と心新たに御誓いし自分達が願主となって頑張らさせて頂こう、という気持ちになる為の場が御会式なのだと承っております。
と答えられる様になったら私は拍手喝采するでしょうね。
『では、何の為の御修行ですか?御恩報じだったら御会式だけでもいいのではないですか?』といわれたら・・・
御修行と御会式は違います。御修行は御恩報じ、そして回向させて頂くのです。
回向というと、先祖の誰々さんの名前を書いて回向してもらう事を考えるかも知れませんが、回向というのはそれだけのものでは無いのです。
元々は、我々が過去世から現在信心をさせていただくまではずっと慳貪(けんどん)であり非常に執着心が強く欲深かった為に、自分中心で自分の事しか考えてこなかった、その為に私達は退大取小(たいだいしゅじょう)といって、ずっと堕獄を繰返してきたと云われているのです。
ですから、私達はこの御法に御出会いさせていただいて回向の御文で懺悔をさせていただく、懺悔の御文なのです。
『私達は罪深く本当に欲の強い人間でございました、今も深いです。ですからこれからは法の為に、人の為にさせていただく事を中心にさせていただきます。願わくば人の為にさせて頂いた功徳を、亡くなった方々、又自分の後生、これから生まれて来るであろう子供や孫の為に、回り向かわせて下さい、という御誓いが回向なのだと聞いています。
その為の御修行参詣をさせていただく・・・ですから御修行は自分の為の修行と言う事だけではなく回り向かわしめる為の修行なのではないでしょうか、片時も恩恵を忘れてはいけないのです。
それが人間らしい人間であるし、そう自分がならさせて頂きたいのです』
と、そんな答えができる様になったら素晴らしいでしょうね。
何処までも中心体は化他行であり、それに支えて行くのが自行なのです。
そのような観点から捉えて行くと、何の為の御修行であり御講であり何の為のお布施なのかきちんと捉える事が出来るのです。
では何の為の御布施なのか・・・教務を養う為の御布施でしょうか?現実的に考えるとそうなっています。
それも外護精神として功徳になっていますが御布施本来の目的は何かと言うと、喜捨精神です。
我々凡夫のあらゆる苦しみの元は欲であると仏様が悟られて、欲を喜んで捨てて離して行く自行として布施行を教えられたのです。
その御布施というのは財の布施もありますが身体の御布施と言うのもあるのです 。
これを法施(ほっせ)といいます。
他人の為に一生懸命己を犠牲にして誠を尽くす、一生懸命法を説く、これも法施であり御布施行なのです。
何処までも御布施の意味は、菩薩行に向かわしめんが為の御布施行なのです。
ですから、御布施さえしていれば成仏出来るかと言えば、片手落ちになってしまいます、部分の修行になってくるので自行になりがちなのです。
この点がぼやけてしまうと形式化し本質が失われてしまうのです。
ただ人を大勢集め、その場を繕う為の御会式、綺麗に見せようとするのです。
演出が始まってイベント化したり、細かい形式的な事ばかりを気にする様になるのです。
例えば、御祖師様の『国立戒壇』というものがあります。
これは、日本国を本門の御戒壇にさせていただくべく折伏行していかなければならない、というものです。
S学会は、この国立戒壇を言う訳です。
『世界そのものを国立戒壇にしなければならない、だから私は外国に行って大使を折伏したのだ、それが仏立宗にはあるのか!』とか言う訳です。
それも一理はありますが、御祖師様のお心をよく捉えていくとそうではないのです。
ゆくゆくはそうなっていかなければいけない全体の目標である全体観、それに対して、そうなって行く為にはまず何をするべきか、それは人を一人から助けていく事に国立戒壇の元があるのだ、と言う事です。
日本国を大きな全体とした時にその全体の最小単位は何かというと家族です。家族の中で全体観が培われてくる事が信心なのです。
全体観というのは切っても切り離せないものと言う事です。
私の身体に例えると、まず身体を全体としてその中に頭があったり目があったり口があったりしますが、これは切っても切り離せるものではありません。
目が痛くなったら、目だけが痛いのではなく全体で痛みを感じます。
指を切ったらその指だけが痛いのでは無く手全体、体全体に痛みを感じますよね。
それは全体が繋がっていて切っても切れないものであるからです。
個々面々に存在はしていますが切っても切れないもの、それと一緒で家族も全体として捉える事ができるのです。
家族が病気をしたら、自分が何処にいようと心配する、ちがいますか?子供が病気になった、どうしよう、と奥さんから電話が来たら仕事していても気が気ではない、ふふふと笑えない、それは家族だからなのです。理屈ではないのです。
子供に嬉しい事があれば親も物凄く嬉しい、運動会で子供が2番だった、子供が喜んでいれば嬉しいし、子供ががっかりしていたら親もガッカリする・・・一体のものです。
親子でも兄弟でも家族と言うものは一体のもの、それが全体観の捉え方です。
嬉しい時には一緒に嬉しい、苦しい時には一緒に苦しむ、これが家族の全体観です。
逆に全体観の無い部分と言う捉え方をしていくと、私は私、俺は俺、誰がどうしていようと知った事ではない。
そこに形の上で家族として存在していても、個々面々で暖かみも思いやりも無く、家族としての繋がりはあっても疎外感がある。
それが全体観の捉え方が出来ていない家族のあり方です。
ですから御信心させていただくという事は、全体観という感性を身につけていく事です。
全体観の最小単位が家族なのですから、家族も大切に出来ない人間は人様を助ける事は出来ない、国立戒壇を元から壊しているのです。
まずは自分の足元から家族から大切にして行く事から始めなければならないのです。
その為の自行であり、化他行の為の自行でもあるのです。
家族を大切にするところから暖かみや思いやりの心が培われて来るのです。
そういう暖かいものを人様や社会生活に及ぼしていく、その様な処に人間同士の深い信頼関係が生まれて来るのです。
正行、助行の捉えかたが出来て来ると全体感という捉えかたも出来てくるようになるのです。
信心はまず自分の家族から、足元からみていけるようになる事が大切で、これが出来て来ると謗法の捉えかたも感覚的に間違わなくなって来るのだと思うのです。
これがぼやけて形式化していくと、例えば『誰さんの葬式に行ってきたから御懺悔した方がいい』とか『謗法の親元の葬式も謗法になるから行かない方が良いのだ』とか、になって来るのです。
では、謗法と言う観点から全体と部分を捉えてみます。
先程私の身体に全体と部分があるという話をしましたが、仏様の全体は何かと言うと『妙法蓮華経こそ本仏にして候へ』といって、御題目そのものが全体仏(本仏、本体の仏)です。
全体仏の中に分身仏という部分の仏様がおられる、それが南無阿弥陀仏であったり薬師如来であったり弥勒菩薩であったりするのです。
その分身仏と言うのは全体仏の中にちゃんと納まっておられる分身であり、身体の一部であり、切っても切れないものなのです。
それぞれの仏、如来は全体仏の中に納まってこそ、それぞれの働きをされるのです。
ですからそれぞれの分身仏を拝んだりしてはいけないですし、それは全体を壊す事であり本門の御戒壇を壊すという事で、これが謗法です。
謗法というのは仏の教えから逸脱するという事です。
何処までも全体仏(御題目)を大切にする事が肝心で、仏様は御自分が御隠れになった時、荼毘(だび)に伏したお骨(シャリ)さえ拝んではいけないと言われているのです。
それは御本尊(御題目)と自分のシャリとの二つを拝む事になる迷いだからです。
一仏(妙法蓮華経の本仏)が御本尊であり、その中に諸菩薩諸天善神が円満に納まっているのです。
それが全体と部分との捉え方です。
形式化していきますと、ぼやけた謗法感覚では形ばかりになっていき、周囲の人間関係を疎外にしたり他人との関係が気まずくなってしまいます。
何でも謗法謗法と言う様になってゆき、『ではお前達の信仰は何なのだ!』と人に言われる事になってしまいます。
全体と部分という捉え方から謗法という捉え方がしっかり出来てくれば、その様にギクシャクした人間関係にはならず、むしろ円満な人間関係が出来てくるはずです。
例えばお世話になった方が亡くなった事に対しては、その生前の恩を想い恩に対して手を合わせて行く事は大切ですよね。
そしてまず一番大事にさせて頂かなければいけないのは、恩ある方にこの御法を授ける事が出来なかった自分自身の懺悔です。
『慈悲がなかったのだ、それに対して御回向させていただきたい、願わくばもう一度人間に生まれ変わらせて頂いてこの御法に御出会い出来ますようにお願い致します』と言って御題目で御回向させて頂くのです。
心を込めた御懺悔が出来てこなければいけないのです。
自分なりにケジメは持って謗法の本尊にではなく、故人の御位牌に対して手を合わせに行くのです。
逆に、もし手もあわせなかったら、そんな姿を人が見た時に『何なのだ?あの人は!』と思われて、返って御法にキズをつけてしまう場合もあるのです。
人を大事にする信心だと言うのに何故恩ある人の葬儀にも行ってはいけないのか?となってしまうのです。
全体観という捉え方が出来てくると、この様な事はなくなって、自然な振舞が出来る様になってくるのです。
人は人として本当に大切にしてゆくべきなのです。
ただし、人を裏切たり傷つけたような人間を敬う必要はありません。
この御法は破邪顕正(はじゃけんしょう)といって、邪を破って正を顕わすのです。
全体観という捉え方ができていれば、敬う必要があるかないかのはっきりとしたものの捉え方が出来てくるのです。
全体と部分の捉えかたがぼやけていると、何でもうやむやになって『猫も杓子も、信心授けて欲しいと来るなら誰でもいいではないか』という感覚になって来るのです。
『泥棒しても懺悔の法なのだから懺悔さえすればいいではないか』と、こんな理屈まで出てきます。
この様に全体が見えずに筋道をしっかりと捉えられないと、全てに及んでおかしな事になってくるのです。
【三筒之中 一大秘法】 というのがあります。
三筒之中というのは、本門の本尊・本門の戒壇・本門事行です。
三筒は一筒に籠る、と言われています。一筒というのは御題目です。
御題目に全てが籠る、全体の中に籠るというのが三筒之中という事です。
御題目は正行で、それに対して本門の本尊・本門の戒壇・本門事行は部分である助行と捉えます。
そうすると『御題目と本門の本尊は一緒ではないのですか?』と思われるかもしれません。
本門の本尊と言うのは御本尊です、御本尊はどの御本尊でも良いかというとそうではありません。
本門八品所顕上行要付の御題目でなければいけないのです。
しかし、それだけで妙法蓮華経という生きた御仏と成りえない、本門の本尊だけでは駄目なのです。
本門の戒壇・本門事行が伴って初めて『妙法蓮華経こそ本仏にして候へ』・・・そこに魂が宿られるのです。
それが御題目の中に籠る、という事です。
本門の戒壇とはどういう事かというと、謗法のない清らかな心の世界の場所にしていく事です。
人を陥れたりする様な歪んだ心や行動があるならば本門の戒壇を壊しているのです。
本門の戒壇は御題目そのものに籠っているわけですから、御題目を壊しているという事に成るのです。
また、実際に事行・化他行を、導師自らが行っていないのは理行であり謗法なのです。戒壇・事行、いずれかが壊れても、そこの御題目の中には御法様は宿られないのです。
これが全体と部分の捉え方です。
ですから私達は信心の根本であり基本の捉え方を大事にして行かなければならないのです。
これらの感覚は、一度二度のお話では解らないところもあると思うので、これからも色々な角度から話させてもらおうと思っています。
内要そのものでチンプンカンプンな部分もあるかも知れませんが、感性で捉えて欲しいのです。
正行・助行、全体・部分、という捉え方、これが肝心です。これは皆さん方が信心をしていかれる上において大きな財産に成るはずです。
こういう事を受け継ぎ流して行く御信心が出来ていけば、この御信心は五〇年も一〇〇年でも続いて行くのだろうと思います。
けれども、やがては澱(よど)んでいくのだとも思っています。
そうしたら又誰かが本当に御法に対して決定して立て直さなければ成らないのです。
そう言う事が繰返されていくのだと思います。
法を本当に受け継ぎ流して行くのはお寺ではなく人なのです、ですから人を本当に育てていかなければいけないのです。
本当に法に決定出来る人をです。
その為に今の御信者が草分けの信者になるのですから、今正法を頂いているのだと言う事を、誇りに思って欲しいのです。
人数は関係ありません。
少ない人数から始まっていっても、人の心が集まっていったらやがては物も建っていくのです。
今大事にしなければならないのは御法の神髄であり、御心を・・・それは御祖師様をはじめ御三祖が何故御奉公してこられたのかという御心を適確に頂いて捉えていく事なのです。
我々が何の為に御信心させて頂くのかというのかという目的意識を、蓮行寺の御信者ははっきりと誇りを持って欲しいと思うのです。
その様な信心を本当に確立して頂きたいと思います。
有難うございます。