如来とは(観心本尊抄より)

 

 仏様という方は、覚り(真理)の道に乗って、この世にお出ましになり、この世で覚りを開き示したのである、というのです。

 

覚りを身に体得されていますので、その身は自由自在であります。

 

娑婆世界にお姿を現す(如来)こともできれば、そのままの姿で永く世に在る(如住)ことも出来ます。

 

また、時にはお姿を隠す(如去)ことも出来るのです。

 

そこで仏様のこの自在の御徳の一つをとりまして「如来」というのです。

 

このような働きをもっておられる仏様には、私達と違ってその御身に何時も三つの力を備えておられます。

 

これを「仏の三身(さんじん)」といいます。

 

それが「法身(ほっしん)」「報身(ほうしん)」「応身(おうじん)」というのです。

 

法身とは、法は道理ということで、世の中のあらゆる道理を集め、積み重ねて備えてあることをいい、これを「理の徳」といいます。

 

報身の報は、むくいということで、苦労し修行して、徳を積み重ねることをいいます。

 

修行して、世の道理を知る徳を報身といい、これを「修因感果(しゅういんかんか)の徳」といい、「智慧の徳」ともいいます。

 

応身とは、応はこたえる・うける・したがうというわけで、相手方に受け入れられる・応(こた)えられるような徳を備えることで、これを応同するとか応化するという言葉でいい表します。

 

何のために応同し応化するかといいますと、衆生が親しみ近づけるように応同し、姿を変えるのです。

 

それは、衆生を感化し向上させようという慈悲の心から出てくるものですから、応身は「慈悲の徳」をあらわすものです。

 

以上、法身・報身・応身を真理・智慧・慈悲の三徳といい、仏様はこの三つを備えておられるので、これを「三身具足(さんじんぐそく)」といいます。

 

この三身を具足して、それのどの面を表にするか・・・それによって、仏様に対する観方(みかた)が違います。

 

仏様を報身を中心として見るのを「報中論三(ほうちゅうろんさん)」といい、仏様を真理そのものと見方をするのを「法中論三(ほっちゅうろんさん)という言葉でいい表します。

 

仏様を理体という観方をしますと、従ってこれを対象(相手方)模範(手本)として信仰するのでありますから、その信仰振りは理的・諦観的(理を悟る仕方)となります。

 

天台宗は、仏様を理の集積された方と見、従って、これに倣(なら)って、「観念観法」という道理を悟ろうという修行に努力するのです。

 

お祖師様の観方は、仏様を修因感果の修行の努力を積み重ねられた方とするのです。

 

従って、滅後末法の信仰は、悟る工夫というよりは仏様の修行に倣(なら)い、信心修行の努力の中に、自然と覚りの境地に入ろうという態度で修行するのです。

 

さて、「如来」という言葉は、今言いました三身の中には、「報身を中心とした仏様」ということで、この報身の仏様が衆生教化のために、慈悲の行動を示されるために、この娑婆にお出ましになった、つまり応同された、というので「三界慈父釈尊」といわれたのであります。

 

ですから、御題の「如来」というのは、「報中論三の応身」というのです。

 

このような仏様ですから、その御身には永遠に変わらぬ御徳を備えておられますので「常住不退(じょうじゅうふたい)」とお示しになったのです。