種子島(たねがしま)

 

鹿児島県に種子島という島があります。

島の北端に位置します西之表島市には、現在観光地として「日典ヶ浜(にってんがはま)」や「矢止石(やどめいし)」がありますが、今日はその二つの由来についてお話していきたいとおもいます。

今から、約六百年前の頃、室町時代です。

当時の種子島では、殿様から一般の人々まで全ての島民が「律宗」を信仰していたのです。

当時、慈恩寺というお寺に「林応(りんのう)」と称する僧侶がいました。

年は若いのですが、非常に頭が良く利発な方でありました。

領主の殿様も、将来を期待され「律宗」の奥義を学ばせるために、本山の奈良へ修行に行かせたのでした。

それから、七年間修行を積まれた「林応」は、故郷に帰るために堺(当時の船宿)に宿泊した際、そこで運命的な人と出逢うのです。

「太都(たいち)」という盲目の人でした。

この太都の「法華経」の話を聞いて、どうしてもその師(日淨上人)にお会いしたく、更に「法華経」についてお伺いしたところ、

「今までに学んだ律宗の教えに対する疑問がつのるどころか、法華経の奥義を是非とも窮めたい」・・・

そう思い、本興寺(本門法華宗)にて「門祖日隆聖人(もんそにちりゅうしょうにん)」のお弟子となられ、そこで十数年修行されたのでした。

その方が「日典上人(にってんしょうにん)」です。

時を経て、故郷、種子島の島民にこの「妙法」を授けていくことこそが、生まれ育った島や島民に対して一番のご恩報じだと心に決め、帰郷されたのです。

二十年ぶりに帰郷され、領主種子島時氏公に長い間留守をしていた事、お世話になった事等、御礼を申し上げ久しぶりに慈恩寺に帰りました。

そこで、日典上人の説法があると言うので領主を始め島民一同が、どんな素晴らしい律宗の教義が聞けるのだろうと思って待ち受けていたのです。

そこで行なわれた説法で、上人は「律宗」の教えではなく「法華経」を説かれたのです。しかも、島民一同が信じている「律宗」は、仏の真実の教えではない・・故に「律宗」では成仏は出来ない、ということをはっきりと言われたのです。

それを聞いていた殿様は、大変立腹されその座を蹴り、立ち去っていったのです。

同時に島民も皆席を立ったのです。

その後、上人は慈恩寺を追われ生家に帰ることも禁じられたものですから、松の根を枕とし海草を食べて飢をしのぎながら「妙法」の尊いことを一軒、一軒歩いて説いていかれたのです。

このような逆境のなかで、来る日も来る日も説いてまわられていると、「徳永右衛門」という、兼ねてから上人のことを良く思わない人物が、法論を持ちかけてきたのですが、上人の説かれる「妙法」に心打たれてその場で改宗されたのです。

それからは、人目を忍んでは上人の庵を訪ねては「妙法」の尊いことを聞いて、尚一層随喜され、益々確固たる信念を持つようになり、同朋の「高尾野筑前」を誘い、上人の御法門を聴聞させたところ、心から感銘し改宗を誓ったのです。

日典上人に帰伏した徳永、高尾野の両名は、何とか領主時氏公の誤解を解き、上人に会って頂くよう取り計らったところ、領主はこの両名の熱意に心打たれて、心ひそかに随喜するようになったのです。

程なくして領主時氏公は上人の庵を訪ねられ、「妙法」の尊いことを聞いて師弟の縁を結び、妙法への帰依を誓ったものの直ちに改宗するには至らなかったのです。

というのも、当時の政治の実権は「日高三家」が握っており、弱い立場にいたので、改宗を宣言することは困難だったようです。

その後、領主が日典上人の庵を訪ねてきたのが、やがて上人の身の上に大きな危険をもたらすことになったのです。

ある日の夜、日典上人の庵に男達が侵入してきたのです。

男達は口々に

「この裏切り者!殿様までたぶらかすなんて、とんでもない奴だ。今日がお前の最後の日だ!」

と叫びながら、殴るや蹴るや・・・上人の皮肉が破れ鮮血が周囲に飛び散っても、一向に止めようとしないどころか、益々激しくなっていったのです。

それに対して上人は、反抗する訳でもなく、怯(ひる)むわけでもなく、ただ「妙法(お題目)」をお唱えするだけだったのです。

そういう上人に対して、この男達は庵から引きずり出すや、浜辺に連れて行き、あらかじめ用意していた大きな穴に、何と上人を生き埋めにしたのです。

その惨劇から三日たち、四日たっても、浜辺を訪れた人々の耳に、どこからともなく「お題目」の声が聴こえてきた、というのです。

よく耳をすますと、どうやら地の底から、悲しげな「お題目」の声がして、段々と細くなっていくものの、一ヶ月ほども続いたというのです。

これこそが、日典上人の殉教を遂げられた生涯だったのです。

生涯において一度も日の目を見ることもなく、「妙法」一筋に、我が身を懸けてのご奉公だったのです。

今も尚、この浜のことを「日典ヶ浜」と名づけて、言い伝えられてきているのです。

その日典上人が為し得なかった全島妙法化を実現したのが、日良上人だったのです。

このお二人のつながりは、というと尼崎「本興寺」時代、日典上人の故郷「種子島」に対する一入(ひとしお)の思いを、お弟子になる日良上人へ話されたのでした。

日典上人が言われるのに

「いつ果てるやもしれぬ命、我が故郷・種子島全島が妙法化せんが為には、捨石(すていし)となる覚悟・・私の亡き後、私の志を貫いていただきたい。」

それに対して日良上人は、痛く感銘し

「喜んでその志を受け継いでまいります。」

という固い契りで結ばれたのでした。

その後日典上人が殉教された二年後に、約束を果たさんがために、日良上人は種子島へ来られたのでした。

日良上人は、徳永、高尾野両名と共にご奉公していかれたのです。

種子島全島を「妙法化」するためには、どうしても領主である、時氏公に改宗宣言をしてもらうことだが、そのためには、日高三家から「妙法」の尊いことを説いていくことから始めないといけない・・

となり、

日良上人は身分を偽って、京より来た茶道の師範と称して、日高家に潜入し、機をうかがっては「妙法」の尊いことを説いていかれたのでした。

この根気のご奉公が実を結び、日高家が改宗宣言となり、相次いで領主時氏公も改宗宣言をなさったのです。

そのことによって、島民全てが「妙法」へ改宗となったのです。

その間日良上人も大変なご苦労の連続だったようです。

その中で、島民の一部の者が上人のことを快く思わず、弓矢で殺そうと試みたのですが、何度も何度も放った矢が、上人に刺さるのではなく、石に当った・・

というのです。

それを真近かに見ていた者達は、怖くなってその場を逃げ出した、ということです。

その石が「矢止石」となって、いまでも残っているのです。

日典上人、日良上人の深い志があったからこそ、種子島全島の妙法化が成就したのだと思います。

生まれ育った故郷にご恩報じがしたく、自分自身のことは顧みず生涯をつぎ込まれていかれた日典上人、その志を受け継いでいかれた日良上人のご奉公精神は、まさしく僧侶の「鏡」だと言えます。

昔は、このような素晴らしい志を持ち、貫かれた方がおられたのですね。